デス・ライティング(Death Writing)でホントに死んじまう

有罪!有罪!有罪!
有罪!有罪!有罪!

 

金が欲しい!金がほしい!金がホシい!
カネガホシイ!

 

 

経済戦争に敗者はいない。
そこにいるのは勝者か死者だけだ。

面影ラッキーホールを聴くだけで、
他の人の人生が体験できる。

 

 

親愛なる読者の皆さん 
虚業の王 内田比呂です

 

 

デス・ライティングとは

 

その名の通り、死について考え、死について毎日書いていく。

 

自分の死、家族の死、友達の死、恋人の死、誰かの死、万物の死。

明日死ぬことが分かっていれば、今日を生きることへの考え方や行動が変わる。

「なんとか大学の研究結果で分かった云々かんぬん…」
と権威性込みで誰かが説明していたところで、たったこれだけのことだ。

 

死ぬことに前向きでなければ、生きることへも前向きになれない。

幸せのなかにいると幸せに気づけない。

これと同じだ。

 

 

デス・ライティングでなにが見えるか

 

誰しも子供の頃っていうのは、まるで時間が止まっているかのように1年が長かったのではないだろうか。
大病を患ったりでもしていなければ、自分はずっと子供のまま、これが永遠に続くのではないかと一度は思ったことがあるだろう。
どうしてそう感じるのかといえば、多くの人が子供の頃は単調な毎日の繰り返しだから。
でも大人になるにつれ、やらなきゃいけないことが多くなり、情景が目まぐるしく変わっていくから、あっという間に時は過ぎる。

それでも、自分は明日も生きていると思うから、死ぬことを忘れる。
誰かのことも忘れる。

でも不思議だよ。相対性理論の世界でもないのに違う時間の流れのなかに生きていて、生物によって寿命が違う。
同じ人間の体でも家電製品みたいに当たりはずれもある。そう考えると壊れないように長持ちさせるメンテナンスは誤差のレベルだ。

 

 

デス・ライティングを大切な人のために書く

 

人は何故、死に恐怖を感じるのか。

 

自分という存在がこの世から消えるから。

死んだことのない人間には、死後どうなるのか、分からないから。

つまり未知のものだからだ。

でも本来未知のものには憧れや興味もあるはずだ。知りたいという気持ちが。

 

死の恐怖の大半を占めているもの。

 

それは死ぬ瞬間まで若く健康でいられることはないと誰もが知っているところからくる。大抵は死ぬ前段階で痛みや苦痛を伴う期間が存在する。

死は暴力もイメージさせる。例えば転がっている生首があったら、その状態に至った暴力を想像させるし、死の恐怖を感じずにはいられない。
半殺しにされて結果生き残ったと聞けば、暴力を加えられたことによる醜い姿やその後の不自由で地獄のような生活も想像させる。

 

死の恐怖の正体は主に、死の前段階にある「痛み」と「暴力」への想像だ。
そして大切な人との永遠の別れを連想させるからだ。

未だ、起きていないことに対する悲観的な思考。これが良くない。

 

昔、ベンジーが寺で坊さんに「人は死んだらどこへいくのか」と訊いていた。

坊さんの答えは「そんなことより、今を精一杯生きること」だった。

死ぬことは絶対に決まっているし、いずれ死んだら分かるのだから、生きているうちから自分が死んだらどうなるのか考える必要はない。

後に残す人のことだけ考えればそれでいい。

僕は自分が死ぬより母が死ぬ方が怖い。

 

だから、自分や周りの人の死について書いてみるといい。
自分で書いたデス・ライティングに引き込まれない程度に。

どう生きるか、誰のために生きるかを忘れないために。

 

 

デス・ライティング(Death Writing)でホントに死んじまう

 

僕が何かを書くときは大抵夜中で明け方に書き終えることが多い。

書き終わった時は詩文でそこそこ満足のいく仕上がりだと思っていても、昼に読み返せば散文的。恥ずかしいものだと感じる。
本来創作は恥ずかしいものだ。

 

自分のコピーライティングの世界へダイブして、考えを巡らせて書けば書くほどに、元々、そういう人格の自分であったかのように錯覚する。

引きずり込まれて、なかなか抜け出せなくなる。

企業のゴーストライターもこれとまったく同じことを言っていた。

 

きっと人は言葉で死ぬ。

 

 

誰の理解も求めていない

心臓をエグる私怨と情念

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